2008年2月12日火曜日
「幸せ」(2007年の作品)というトルコ映画をDVDで観ました。
MUTLULUK(意味は「幸せ」)というトルコ映画をDVDで観ました。
この作品は第44回アンタルヤ・ポルタカル映画祭で、Özgü Namal(オズギュ・ナマル)さんが女優賞、Murat Han(ムラット・ハン)氏が男優賞をもらっている他、音楽の賞、ヘアメイク賞、音響賞と、全部で5つの賞をもらっているそうです。
映画を観ての感想は、なんと言っていいかというのが感想でした。
人は生まれた国を地方を背負ってその論理の中で生きるものだし、また、同じ場所でも、その時代年代を背負って身につけて行動します。
逃れることはできないし、自分の弱さも他人のささやきも手助けも偶然の現れて出くわして今があります。
この映画は、トルコ東部のワンのある田舎町で、17歳のメリエムが乱れほうけた状態で湖のほとりで倒れていて、見つかるところから始まります。どうも、犯されたような跡があります。
その後、家で閉じ込められています。何を聞いても覚えていない、何もしていないと言います。その後、家族は風習によって、彼女が罪を犯したこと、よって、殺さなければならないと決意します。最初、家族に自殺をうながされますが、とげられませんでした。その後、メルエムを殺す役目が、ガバル谷の特殊部隊で兵役を終えたメリエムの近い親戚のジェメルに与えられます。2人は一緒にイスタンブールに行きます。そこでメリエムを殺して、ジェメルは村に戻る予定でした。しかし、メリエムが橋の階段から飛び降りて死のうとした瞬間、助けてしまいます。メリエムはもう村では生きていけないし、(結婚前に処女を失った女は村では恥とされ、生きていくことが難しい。)ジェメルもメリエムを殺さないでは村に戻れません。
あてもなく、さすらい続けることになります。そこで、偶然から、イスタンブールでの大学教授の生活をやめて、船で海に出ていたイルファル氏と出会います。彼は、今までの優雅な暮らしに飽きて妻とも別れて船に乗り込みました。すべての特権や生活を放棄した今、自分自身の人生の主に初めてなったと言っています。イルファルの船でメリエムとジェムルも暮らすことにします。
最初、ジェメルは、イルファル(元教授)に、「彼女は学問がないので、失礼なことがあれば申し訳ないです」と言います。イルファルは、「いいや、彼女は頭がいい、それに、働き者で彼女のおかげでどこもかしこもピカピカだ」と褒めます。イルファル(元教授)は、前の妻にも、「彼女は賢くて、あなたの周りの人間のようなしゃべり方をしないし、何も離す必要もない、目を見ればすべてを理解できる娘だ。」と褒めます。
前の妻は理解せず、恋愛の話にしか考えず、ジェメルに、「2人に気をつけたほうがいいわよ」とささやいて帰ります。
イルファル(元教授)は、考えの新しい、都会(イスタンブール)の人なので、一緒にダンスをするように言ったり、ジェメルにも食卓の準備をするように言ったり、メリエムにネックレスをプレゼントしてつけてあげたりします。ひとつひとつのことが、村とは違いとまどうのは、ジェメルのほうです。
食卓の準備は女の仕事だと断ったり、ネックレスをもらった彼女をののしり責めたりします。彼女は、「あなたのために買ったのに、断るのは恥ずかしいことだと言われた。どうして断れるの?私にネックレスをつけてくれたことには驚いた。」と言いますが納得しません。また、もの売りに近づいてきた男たちと会話が続きそうだったので、メリエムが船
室に隠れようとしるところを見かけたジェメルは過剰に反応して、男たちに、彼女に何を話しかけた?と、どなっています。
自分が酔っ払って寝ている間に、イルファル教授と彼女が出かけたことがありました。待っている間に、だんだん頭に血が上ってきたジェメルは、メリエムに怒った後、イルファルに襲い掛かり、縄さえかけて殺しかけます。彼女が空砲をならして、叫びます。「誰も私がどんな風に感じているなんて考えない。どうして、ジェメル兄さんは私を殺さなかったの?」と。それで、ジェメルは彼女のもとに駆け寄ります。
その夜、二人は、向かい合います。イルファルは、彼女は自分にとって娘のような存在だと諭します。ジェメルは、「彼女は汚れている。」と言います。イルファルは、「彼女は他のどの人よりもきれいだ。」と言います。そして、「何があったかは想像がつく」と言います。「本で読んだことがある」と言います。
最後には、「彼女のことが好きなのか?」と聞きます。「はい、好きだ。」とジェメルは初めて言います。
それからは、男2人はまた仲がもどったようです。しかし、男2人が船から離れたスキに
村人たち3人が彼女を小型ボートで襲い連れ去ります。村人たちの風習にとって、罪をもった恥である娘を殺すことは、正統性のある仕事なのです。追われながら逃げて海岸で転んだ彼女は、思い出します。自分の親戚のおじさんが自分を犯したことを。思い出しながらおじさんを恐れる言葉を発しながら狂ったようになったメリエムに追いついたジェメルもそこれ、事実を知ります。平気で彼女を処罰しなければならないと言い続けていたおじさんは、実は彼女を犯した張本人だったのです。ジェメルは鉄砲でおじさんを殺そうとしますが、彼女の顔を思い浮かべて思いとどまります。去っていく彼の背中で銃声が鳴ります。家族の男(お父さんかな?)がおじさんを鉄砲で撃ったのです。
最後は、ジェメルとメリエムが2人で海岸に座るところで終わります。
家族の女(多分お母さん)が娘に自殺を勧めたこと、それから、村人の女やイスタンブールのスカーフを巻いた女性もメリエムにとても冷たかった。本来見方であるべきであるはずの女性が、より一層、冷たい視線を向けるのは、一方で理解できる気がした。自分は同じ種類ではないという保身。
この作品の背景では今も村で行われているという「道徳殺人」があります。トルコでは結婚前の交渉は、女性に限って基本的に許されておらず、特に田舎では、初夜の翌朝、村人に血のついたシーツを見せる風習さえあると言います。
そして、結婚前の娘が処女を失った場合、それは、家族の恥になり、家族の手によって村人に分かる形で殺される場合も多いというのです。この話を知ったときは衝撃でした。誰にも言えなくて、本当かどうかも確かめられませんでした。でもこの話は、トルコ人なら誰でも知っている話でした。もちろん、トルコの人たちも、このことがとても悪いことだということは分かっているのです。
イスタンブールの人には、自分とは直接関係のない東部の村の話をいう意識があるようです。この話題は、映画で本でドラマでとよく扱われるので、もう飽きているという意見も聞きました。
トルコの人たちはこの映画について、どういう感想をもったのでしょうか。今度は、トルコの人の感想を読んでみたいと思います。
この作品は最初、本で出てから映画になったようです。
トルコの人の感想をインターネットで拾ってみると、トルコではよく描かれる題材のようです。トルコの東部での悪い伝統を、よく表現したと言っている人もいました。
http://www.mutlulukfilm.com/
この作品は第44回アンタルヤ・ポルタカル映画祭で、Özgü Namal(オズギュ・ナマル)さんが女優賞、Murat Han(ムラット・ハン)氏が男優賞をもらっている他、音楽の賞、ヘアメイク賞、音響賞と、全部で5つの賞をもらっているそうです。
映画を観ての感想は、なんと言っていいかというのが感想でした。
人は生まれた国を地方を背負ってその論理の中で生きるものだし、また、同じ場所でも、その時代年代を背負って身につけて行動します。
逃れることはできないし、自分の弱さも他人のささやきも手助けも偶然の現れて出くわして今があります。
この映画は、トルコ東部のワンのある田舎町で、17歳のメリエムが乱れほうけた状態で湖のほとりで倒れていて、見つかるところから始まります。どうも、犯されたような跡があります。
その後、家で閉じ込められています。何を聞いても覚えていない、何もしていないと言います。その後、家族は風習によって、彼女が罪を犯したこと、よって、殺さなければならないと決意します。最初、家族に自殺をうながされますが、とげられませんでした。その後、メルエムを殺す役目が、ガバル谷の特殊部隊で兵役を終えたメリエムの近い親戚のジェメルに与えられます。2人は一緒にイスタンブールに行きます。そこでメリエムを殺して、ジェメルは村に戻る予定でした。しかし、メリエムが橋の階段から飛び降りて死のうとした瞬間、助けてしまいます。メリエムはもう村では生きていけないし、(結婚前に処女を失った女は村では恥とされ、生きていくことが難しい。)ジェメルもメリエムを殺さないでは村に戻れません。
あてもなく、さすらい続けることになります。そこで、偶然から、イスタンブールでの大学教授の生活をやめて、船で海に出ていたイルファル氏と出会います。彼は、今までの優雅な暮らしに飽きて妻とも別れて船に乗り込みました。すべての特権や生活を放棄した今、自分自身の人生の主に初めてなったと言っています。イルファルの船でメリエムとジェムルも暮らすことにします。
最初、ジェメルは、イルファル(元教授)に、「彼女は学問がないので、失礼なことがあれば申し訳ないです」と言います。イルファルは、「いいや、彼女は頭がいい、それに、働き者で彼女のおかげでどこもかしこもピカピカだ」と褒めます。イルファル(元教授)は、前の妻にも、「彼女は賢くて、あなたの周りの人間のようなしゃべり方をしないし、何も離す必要もない、目を見ればすべてを理解できる娘だ。」と褒めます。
前の妻は理解せず、恋愛の話にしか考えず、ジェメルに、「2人に気をつけたほうがいいわよ」とささやいて帰ります。
イルファル(元教授)は、考えの新しい、都会(イスタンブール)の人なので、一緒にダンスをするように言ったり、ジェメルにも食卓の準備をするように言ったり、メリエムにネックレスをプレゼントしてつけてあげたりします。ひとつひとつのことが、村とは違いとまどうのは、ジェメルのほうです。
食卓の準備は女の仕事だと断ったり、ネックレスをもらった彼女をののしり責めたりします。彼女は、「あなたのために買ったのに、断るのは恥ずかしいことだと言われた。どうして断れるの?私にネックレスをつけてくれたことには驚いた。」と言いますが納得しません。また、もの売りに近づいてきた男たちと会話が続きそうだったので、メリエムが船
室に隠れようとしるところを見かけたジェメルは過剰に反応して、男たちに、彼女に何を話しかけた?と、どなっています。
自分が酔っ払って寝ている間に、イルファル教授と彼女が出かけたことがありました。待っている間に、だんだん頭に血が上ってきたジェメルは、メリエムに怒った後、イルファルに襲い掛かり、縄さえかけて殺しかけます。彼女が空砲をならして、叫びます。「誰も私がどんな風に感じているなんて考えない。どうして、ジェメル兄さんは私を殺さなかったの?」と。それで、ジェメルは彼女のもとに駆け寄ります。
その夜、二人は、向かい合います。イルファルは、彼女は自分にとって娘のような存在だと諭します。ジェメルは、「彼女は汚れている。」と言います。イルファルは、「彼女は他のどの人よりもきれいだ。」と言います。そして、「何があったかは想像がつく」と言います。「本で読んだことがある」と言います。
最後には、「彼女のことが好きなのか?」と聞きます。「はい、好きだ。」とジェメルは初めて言います。
それからは、男2人はまた仲がもどったようです。しかし、男2人が船から離れたスキに
村人たち3人が彼女を小型ボートで襲い連れ去ります。村人たちの風習にとって、罪をもった恥である娘を殺すことは、正統性のある仕事なのです。追われながら逃げて海岸で転んだ彼女は、思い出します。自分の親戚のおじさんが自分を犯したことを。思い出しながらおじさんを恐れる言葉を発しながら狂ったようになったメリエムに追いついたジェメルもそこれ、事実を知ります。平気で彼女を処罰しなければならないと言い続けていたおじさんは、実は彼女を犯した張本人だったのです。ジェメルは鉄砲でおじさんを殺そうとしますが、彼女の顔を思い浮かべて思いとどまります。去っていく彼の背中で銃声が鳴ります。家族の男(お父さんかな?)がおじさんを鉄砲で撃ったのです。
最後は、ジェメルとメリエムが2人で海岸に座るところで終わります。
家族の女(多分お母さん)が娘に自殺を勧めたこと、それから、村人の女やイスタンブールのスカーフを巻いた女性もメリエムにとても冷たかった。本来見方であるべきであるはずの女性が、より一層、冷たい視線を向けるのは、一方で理解できる気がした。自分は同じ種類ではないという保身。
この作品の背景では今も村で行われているという「道徳殺人」があります。トルコでは結婚前の交渉は、女性に限って基本的に許されておらず、特に田舎では、初夜の翌朝、村人に血のついたシーツを見せる風習さえあると言います。
そして、結婚前の娘が処女を失った場合、それは、家族の恥になり、家族の手によって村人に分かる形で殺される場合も多いというのです。この話を知ったときは衝撃でした。誰にも言えなくて、本当かどうかも確かめられませんでした。でもこの話は、トルコ人なら誰でも知っている話でした。もちろん、トルコの人たちも、このことがとても悪いことだということは分かっているのです。
イスタンブールの人には、自分とは直接関係のない東部の村の話をいう意識があるようです。この話題は、映画で本でドラマでとよく扱われるので、もう飽きているという意見も聞きました。
トルコの人たちはこの映画について、どういう感想をもったのでしょうか。今度は、トルコの人の感想を読んでみたいと思います。
この作品は最初、本で出てから映画になったようです。
トルコの人の感想をインターネットで拾ってみると、トルコではよく描かれる題材のようです。トルコの東部での悪い伝統を、よく表現したと言っている人もいました。
http://www.mutlulukfilm.com/
ラベル: 映画
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