2007年12月5日水曜日
Günül yarasıというトルコ映画をVCDで観ました。
友人が私がきっと気に入ると思うと勧めてくれて、一緒に鑑賞しました。
田舎で小学校の先生をしていたおじいちゃんは定年になって、イスタンブールに戻ります。田舎を去るとき、子供たちや村の人たちに、挨拶をして帰ります。特に女の子は学校を続けるようにと言っていました。クルド語でも村人と話をしていました。
イスタンブールに戻ってきたおじいちゃんには、息子と娘がいます。それから、友人。
友人にこれからのことを相談すると、昼、自分が使っているタクシーを、夜、使って、タクシーの運転手をすることを勧めます。
もう一人の主人公はDünya(デュンヤ)という女性です。彼女には7歳(?)くらいの娘がいます。ご主人は暴力をふるう悪い夫で、夫から逃げてイスタンブールに来て、夜繁華街で歌手をしています。歌手をした後は、お客さんにお酒を飲ませるのも仕事です。彼女の娘は、お父さんの暴力を見たとき、4歳か5歳か6歳か、そのときからずっと声が出ないそうです。
彼女は偶然乗ったタクシーの運転手の、このおじいちゃんと打ち解けます。
バーで仕事をしているところへ、おじいちゃんはタクシーの仕事で迎えに来ていました。主人は、田舎からおっかけてきて、そのとき、暴力を奮おうとして、彼女はおなかにガラスが刺さって入院します。
その後、おじいちゃんは彼女とその娘を自分の家に住まわすことになります。
彼女は、どうして今の仕事をすることになった理由を、こう語ります。
子供のとき、2人の男性に犯されて親は、男たちを責めないといけないのに、cinayet töreni(ジナーエット・トレニ)で娘を処罰しようとします。それで、逃げてイスタンブールに来た、本当はtürkü bar(テュルク・バル)で歌いたかったけど、仕事がもらえなくて、今の仕事をしている、そのときに、主人に恋をして結婚したと話します。
おじいちゃんのほうは、田舎で先生として、人々にsaygı(サイグ)、つまり、敬意をもらう聖職で長く勤め上げました。でもね、奥さんは仕事にあけくれる彼と別れていて、息子は、いつもこのおじいちゃんに家を売る話ばかりしていて、娘も、自分の結婚話のでたときに、このおじいちゃん(つまり、お父さん)に、
話をします。あなたは、他の子供を一所懸命に育てたけど、私が子供時代、病気のときに、全然見てくれなくて、私は病院に連れて行ってもらえなくて、それが原因で今、子供ができない体になった、そういう話をします。おじいちゃんは、自分が自分の娘を幸せにできないで、意味なく、働き続けてきたことを、定年した今、知るんだけれども、それでも、やっぱりまた、生まれ変わったら、同じように働くだろうと言います。
それぞれが、Günül yarası(ギュヌル・ヤラス)、つまり、「心の傷」を抱えたまま生きているのです。
彼女の主人がおじいちゃんの彼女が住む家に迎えに来たとき、おじいちゃんは、主人と行くように言います。彼女は、このおじいちゃんと結婚したかったみたいだった。
結局、田舎に帰った彼女は、しばらくすと、やはり主人の暴力をうけ、おじいちゃんに電話をします。そこにやってきたおじいちゃん。追っかけてきた主人。主人は最後に、Sarı eteki(サル・エテッキ)という歌、「黄色いスカート」という歌を歌ってくれるように彼女に頼みます。それを歌う彼女とおじいちゃんは目を合わせあっていました。おじいちゃんは、彼女のもとに来るときに、もうすでに多分、彼女と結婚するつもりで来ていたようです。でも、その歌が歌い終わったとき、突然、この主人は、彼女を撃ち殺し、自分も死んだ。鉄砲で。
目を見開く彼女の娘。驚いて駆け寄るおじいちゃん。
両親のなくした娘はおじいちゃんと話をしています。そのとき、声が出始めます。お父さんの暴力というショックで出なくなった声は、両親の死という違うショックを経て、再び出るように なったのです。
その後、夜、働きに出るおじいちゃんは、自分の実の娘に、この、彼女の娘を預けます。
悪いことが起こったけれども、子供の出来ない娘のところに、子供がやってきた、悪いところからいいことも生まれた・・
悲しいことも、たくさん描かれている映画でした。印象としては、きれいに作られている、つまり、雑でない映画という印象をうけました。映画自体、よくできています。
どんなにいいことをしようと思っても、やっぱり見方を変えると、すべていい、ということはなくて、どの人も、心に傷をもったまま、生きることになる、そういうことを感じる映画でした。いい、トルコの映画ですよ。
田舎で小学校の先生をしていたおじいちゃんは定年になって、イスタンブールに戻ります。田舎を去るとき、子供たちや村の人たちに、挨拶をして帰ります。特に女の子は学校を続けるようにと言っていました。クルド語でも村人と話をしていました。
イスタンブールに戻ってきたおじいちゃんには、息子と娘がいます。それから、友人。
友人にこれからのことを相談すると、昼、自分が使っているタクシーを、夜、使って、タクシーの運転手をすることを勧めます。
もう一人の主人公はDünya(デュンヤ)という女性です。彼女には7歳(?)くらいの娘がいます。ご主人は暴力をふるう悪い夫で、夫から逃げてイスタンブールに来て、夜繁華街で歌手をしています。歌手をした後は、お客さんにお酒を飲ませるのも仕事です。彼女の娘は、お父さんの暴力を見たとき、4歳か5歳か6歳か、そのときからずっと声が出ないそうです。
彼女は偶然乗ったタクシーの運転手の、このおじいちゃんと打ち解けます。
バーで仕事をしているところへ、おじいちゃんはタクシーの仕事で迎えに来ていました。主人は、田舎からおっかけてきて、そのとき、暴力を奮おうとして、彼女はおなかにガラスが刺さって入院します。
その後、おじいちゃんは彼女とその娘を自分の家に住まわすことになります。
彼女は、どうして今の仕事をすることになった理由を、こう語ります。
子供のとき、2人の男性に犯されて親は、男たちを責めないといけないのに、cinayet töreni(ジナーエット・トレニ)で娘を処罰しようとします。それで、逃げてイスタンブールに来た、本当はtürkü bar(テュルク・バル)で歌いたかったけど、仕事がもらえなくて、今の仕事をしている、そのときに、主人に恋をして結婚したと話します。
おじいちゃんのほうは、田舎で先生として、人々にsaygı(サイグ)、つまり、敬意をもらう聖職で長く勤め上げました。でもね、奥さんは仕事にあけくれる彼と別れていて、息子は、いつもこのおじいちゃんに家を売る話ばかりしていて、娘も、自分の結婚話のでたときに、このおじいちゃん(つまり、お父さん)に、
話をします。あなたは、他の子供を一所懸命に育てたけど、私が子供時代、病気のときに、全然見てくれなくて、私は病院に連れて行ってもらえなくて、それが原因で今、子供ができない体になった、そういう話をします。おじいちゃんは、自分が自分の娘を幸せにできないで、意味なく、働き続けてきたことを、定年した今、知るんだけれども、それでも、やっぱりまた、生まれ変わったら、同じように働くだろうと言います。
それぞれが、Günül yarası(ギュヌル・ヤラス)、つまり、「心の傷」を抱えたまま生きているのです。
彼女の主人がおじいちゃんの彼女が住む家に迎えに来たとき、おじいちゃんは、主人と行くように言います。彼女は、このおじいちゃんと結婚したかったみたいだった。
結局、田舎に帰った彼女は、しばらくすと、やはり主人の暴力をうけ、おじいちゃんに電話をします。そこにやってきたおじいちゃん。追っかけてきた主人。主人は最後に、Sarı eteki(サル・エテッキ)という歌、「黄色いスカート」という歌を歌ってくれるように彼女に頼みます。それを歌う彼女とおじいちゃんは目を合わせあっていました。おじいちゃんは、彼女のもとに来るときに、もうすでに多分、彼女と結婚するつもりで来ていたようです。でも、その歌が歌い終わったとき、突然、この主人は、彼女を撃ち殺し、自分も死んだ。鉄砲で。
目を見開く彼女の娘。驚いて駆け寄るおじいちゃん。
両親のなくした娘はおじいちゃんと話をしています。そのとき、声が出始めます。お父さんの暴力というショックで出なくなった声は、両親の死という違うショックを経て、再び出るように なったのです。
その後、夜、働きに出るおじいちゃんは、自分の実の娘に、この、彼女の娘を預けます。
悪いことが起こったけれども、子供の出来ない娘のところに、子供がやってきた、悪いところからいいことも生まれた・・
悲しいことも、たくさん描かれている映画でした。印象としては、きれいに作られている、つまり、雑でない映画という印象をうけました。映画自体、よくできています。
どんなにいいことをしようと思っても、やっぱり見方を変えると、すべていい、ということはなくて、どの人も、心に傷をもったまま、生きることになる、そういうことを感じる映画でした。いい、トルコの映画ですよ。
ラベル: 映画
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